筆者こと&h3f3fの日本の鉄道の全線走破(ひと昔前にはやった、日本の全部の鉄道を乗るという遊びです)の瞬間を旅行記にしてみました。その前に2点程解説。
ついに、私にも全線走破の時が来ようとしていた、既に去年(’93年)の12月29日帰省のついでに未乗区間であった、(東京モノレール)整備場→羽田間を乗り、全私鉄完乗。残り区間は(JR北海道)南千歳→新千歳空港間だけになっていた。
前日、旅行会社に北海道往復の航空券を購入に行ったが、あいにくほとんど満席、10日15時発のスーパーシートならあるとの事だったが、せめて午前中には北海道に入りたいし、おまけに帰りが全くとれる見込みがなさそうだったので、その場はあえなく断念した。
10日の夜になって、3日間予定を空けてあるのに、いったい何をしようかと考えていた。そのうちに、やはりどうしても行きたくなって、各社のプッシュホン予約センターに電話してみた、やはり札幌は行き(11日)帰り(13日)とも満席のようだ。既に、半ば諦めかけていたが、諦め切れず、この際、どの路線でもいいやと空席状況を聞きまっくった。中標津、旭川から福島、名古屋、大阪まで。そうしているうちに、(往き)東京(7時30分発)→函館(4席)、(帰り)釧路(11時40分発)→東京(7席)、空いていることがわかり迷わずこいつらを抑えた(本当は帰りの時間が早過ぎて不満だったのだが仕方が無い)、おそらく今日キャンセルしたものであろう。その後、旅の支度やNIFTYでメールなどを送っているうちに、殆ど寝る時間が無くなってしまった。(眠い眠い)
眠い目を擦り乍ら、何とか羽田に辿り着いた、早速、昨日、プッシュホンで予約した航空券を購入、往路は函館行き、復路は釧路発、係のおねえさんが一瞬変な顔をしたが、こちらはそんな事にはもう慣れっこである。飯を食べて飛行機に乗り込むと、そこには前日の寝不足からくる爆睡が待っていた、目が覚めると既に飛行機は高度を下げ始めていた。 飛行機は多少遅れて到着した、おまけに空港連絡バスが大変な鈍速で、函館駅に着いた時には、特急北斗の出発まで10分程度に迫っていた。
函館に来たという実感も湧かないうちに、駅のみどりの窓口にいった。時間がないというのに窓口が1つしか空いておらず、しかも、10数人は並んでいる。いらいらしながら待っていると、発車5分位前になって急に、窓口を2つ開けて、一気に客が捌けた。多少変わった乗車券(石北本線、釧網線経由、釧路行き)を買おうとしていたので、列車に乗れないのでは?と心配したが、それほどのトラブルも無く、すんなり切符を手に入れられすぐホームへ。
北斗5号は既に満席で、自由席は通路まで立ち席でいっぱいであった。仕方ないので隣の車両の指定席で立つことにした。
「なぜ、こんな所に来てしまったのだろう?」そんなふうに思い始めていた、「なぜ北海道まで来て、列車でたたされなければならないのか?」「やっぱり、車じゃなきゃだめかな?」、などと、いろいろ考えているうちに、列車は森を過ぎ八雲に向かって走っていた。始めて北海道に来た時(大学2年の冬、広尾線、士幌線、羽幌線などが廃止になろうとしていた頃)は、この辺の風景で感動し、北海道に来て良かったなあと思ったものだったが、今は、確かに景色はきれいだし、私の好きな風景の一つだけれど、そんな事より、いまは不快な鉄道旅行に飽き飽きしている、という感じだろうか。
登別で、目の前の席が不意に空いたので、おもわず座ると、すぐに寝てしまった。しばらくすると、車掌が来てわざわざ、私をゆり起こし、「切符を拝見します」おまけに、「ここは指定席なのでお金を払え」と言う。あとすこしで、こんなつまらない鉄道旅行ともおさらば出来ると思うと、すなおにお金を払えた。
雪景色の向こうに、旧千歳空港ターミナルが見えている、誰も歩いていない長ーい連絡橋、薄汚れた白いターミナルが、何か良い雰囲気を醸し出している。
待つ程もなく、最後の列車がやってきた、この列車で乗り潰しも終わりかと思うと、感傷的になった、しかし、列車は走り始めるとすぐに地下に入り、地下のまま最後の駅に着いた。なにか成田空港駅を思わせる駅で、長い旅の最後にはにつかわしくなかった。
’94年2月11日13時25分(JST) 11 Feb. '94 4:25a.m.(GMT) ついに、全線走破達成、改札を出て小さくばんざいをした。せめて、記念に切符でも買うかと思い立ち、券売機の所に行くが、入場券は窓口までと書かれて貼ってある。それなら最低区間の切符でもいいかと思ったが、気をとりなおし窓口へ、「入場券下さい」(この本当に場違いな雰囲気!)しかし、くれたものは懐かしい硬券のもの。「有難うJR北海道。」
さて、記念写真とばかり地上へでるがそれらしい場所はどこにもない、この為に魚眼レンズまで持ってきたと言うのに、それでは航空機をバックに撮ろうと、展望台に上がろうとするが、あいにく展望台は冬季閉鎖、てなわけで記念写真はあきらめ。せめて記念品でもとショッピングをはじめる、なにか飾っておけるものをということで選んでいたらなんとマリンジャンボの置き時計になってしまいました。なんか、今の時代を妙に反映してるようで、また全線走破そして○鉄卒業記念品として最適なものともいえるだろうか。
○鉄を卒業したのでバスでということで、乗り場を探すが千歳空港どこにもバス乗り場の案内がなく、あちへうろうろこっちへうろうろ、諦めかけたが、まあともかく外に出てみると、たまたま札幌行き乗り場が目の前、迷わず乗車券を買って乗りこんだ。
発車して暫くは快調に飛ばしていたが、市内近づくにつれ、渋滞、吹雪や雪祭りで遅れる遅れる、地下鉄の大谷地駅のバス停で「この先渋滞で遅れが予想されます、お急ぎの方は地下鉄でどうぞとのアナウンス」しかし、急ぎの旅ではないのでそのまま乗っていたが、さっきの駅からさらに渋滞と吹雪が強くなりますますスピードダウン、せめて明るいうちに雪祭りの会場に着きたいのだがと、だんだん気持ちが焦ってくる。
結局そのバスで全日空ホテルの前に着いたとき客は、私一人になっていた、そこで運転手が言うには、ここからは札幌駅は歩いたほうが早いですよとのアドバイス、終点まで乗っていようと思っていたのだが、目の前の渋滞は全く動いていないので、仕方無く駅まで歩くことにした。
そして、今回で北海道は5回目だが始めて札幌駅に歩いて辿り着いた、そして駅を見てやっと自分が北海道に来ているという実感が湧いた。
今回、この日程にしたのは実は訳があった、この節のタイトルにもあるように雪祭りを見る為である、さっき空港からバスに乗るとき隣に真駒内駅行きが来ていて迷ったがすでに時間の制限のあるので大通り会場に絞ることにした。
やっと、学生時代には見ることが出来なかった札幌雪祭りに来た、とても私の文章力では表現できないような美しい雪像がそこここに。
いかに雪祭りと言えど、イベントが(7時だったかな?)終わってしまうと寂しいものだ、雪祭りは今日が最終日とあってスピーカーなどの大道具を片付けに入っている。まさに「祭りの後のしずけさ」だ。さっきまでイベントステージでアナウンサーがしゃべり、trfががんがん流れていたのが嘘のようだ。
さて、会場を後にしてそろそろ腹もへったし、札幌といえばラーメンということで、ラーメン屋に走った。私には札幌に来た時は必ず行くラーメン屋がある、時計台の近くの龍鳳という店だ。なんでも札幌ラーメン発祥の店らしい、赤いのれんに創業明治43(だったかな)年と大きく入っていて心強い。勿論味は文句なしだ。
店を出た、まだ今日乗る夜行列車までは時間がある。近くの養老の瀧時計台店で暇を潰すことにした。この店も最初に北海道に来た時に入った店だ。なんかこの旅は急に思いでシリーズのようになってしまった。
※(ここらへんから、当時(’94年2月)の時刻表を捨ててしまったので、現在(’95年1月)の時刻表を見ながら書いています。もし当時の時刻表を持っている方がいらっしゃったら、訂正などしていただけると幸いです。)
列車は立席の人も結構おりかなり混んでいる。さっき駅で指定券がいとも簡単に取れたので、ガラガラだろうと思っていたのだが。大ハズレだ。
さていよいよ道東へ発車だ。この特急は隣りのホームから同時発車した、おおぞら11号と白石まで並走する。特急が二本並走するのをまのあたりにするのは初めての経験のような気がする。白石を過ぎるとさっきの養老の瀧が効いたのかすぐに眠りについてしまった。
網走到着のアナウンスで目が覚めた、車窓には網走刑務所と旧大曲乗降所が見えている。やっと道東だ。
北海道に来てはじめてローカル線の雰囲気のある所だ。今では全国を探しても希少価値の風光明媚でしかも赴きのあるローカル線だ。この線の藻琴駅や北浜駅は駅舎がそのまま喫茶店になっており、それがまたたまらなくいい。以前、もう5年ぐらい前だろうか、に来た時には北浜駅で流氷を見ながら一日を過ごしたこともあったっけ。そしてそのまま北浜の旅館に宿泊したんだったかな。
いまは沖のほうにしか流氷はないなあ。
今回の最終目的地は、乗り潰しで最も楽しかった思い出の地であるウトロ温泉を訪ねることである。できればその時の民宿に泊まろうと思っていたのだが、残念ながら、明日の午前の飛行機で釧路から東京へ帰らなければならない。ということで、ウトロ温泉宿泊は涙を飲んで諦めるしかない。
考えてみればもう前に来た時から7年もたっている、冬季のバスの終点も当時はウトロ温泉だったが、今はその先の知床自然センターという、聞き覚えのないところまで行く。7年前に来た時はウトロ温泉のバス停前のペレケという民宿に泊まって、翌朝そこに泊まってた女性2人組と乙女の涙を見に行ったんだったなぁ。楽しかったなあ。それから今度こそあの時乗らなかったスノーモービルにも乗りたい。
知床自然センターに着いた。なんのことはない乙女の涙がすっかり観光地になってしまっていた。私の淡い期待と、スノーモービルは夢と消えた。
知床自然センターは、なんか知床が俗化していることを象徴しているようでおもしろくなかった。そりゃそこのセンターのスライドショーは素晴らしいし、食堂もお土産屋も完備されているがこちらはそんなものを見に来たのではないのだ。
ただおもしろかったのは、ここでノルディックスキーを借りないと、乙女の涙を見に行けないのだ、前に来た時の経験からそんなものなくても大丈夫だろうと思ってそちらの方向に少し歩いてみたが、他の人がスキーでしか行ったことのない所を歩いて行くのは無理ですぐに足が雪に埋まった。おお急ぎでスキーを借りに戻ったことは言うまでもない。
乙女の涙とノルディックスキーを堪能したあと、ウトロ温泉まで長い坂を歩いて降りウトロの漁港で流氷を心ゆくまで眺めた。知床オーロラフェスティバルとかいう祭りがあるらしくやたらスピーカーの音が耳障りなのが幻滅だが、それでも充分流氷を堪能出来た。
総ての計画を消化し、あとは家に帰るだけになった。長かった乗り潰し旅行を思い出していた。乗っていたバスの運転士は見習い?だったようで、客の待ってる停留所を通過しそうになり指導員にも客にも怒鳴られてかわいそうだった。
斜里についた、斜里の街も7年前とは変わったようで、駅からつきあたりにあったスーパーはコンビニに変わってたり、前に入った喫茶店が潰れてたりした。唯一店を開けていた駅前の喫茶店に入り北海道らしくない食事をとった。
いよいよ最後の列車になった。混んでいたらいやだなと思っていたのだが、なんとか座れそうな席を見つけて座ろうとしたその時、ふっと前のボックスをみると何故か見慣れた顔がある。一瞬うそだろうと思ってよく見たがそれは間違いなく熱海田老氏であった。
さっそく席を移動し釧路までの間だべることになった。なんでも熱海田老氏は流氷を見に来たらしく、冬のこのあたりによく流氷を見にくるらしい。ちなみに私はこの時が5回目の北海道であったが、熱海田老氏は結構回数来ているようだった。
それから今日は東京で大雪が降って交通機関が麻痺状態にあると教えてくれた、急に明日の帰りの飛行機が心配になった。
といわけで、(どういうわけで?)熱海田老氏と会ったからには飲みましょうということで、釧路の居酒屋で情報交換をした。
なんの情報だって?酔っぱらってたので忘れてしましました。釧路とかの地方で友達と飲むのもなかなかいいものですよ。つまみのメニューによく知らないものがあったりして、また地方で人と飲んでみたいものだなんて思ったりして。
その日は、東急インなんぞに泊まった(意外と安いいんですよあそこは)。熱海田老氏は鉄道を乗り継いで東京まで帰るらしい。釧路駅で熱海田老氏を見送った。
次の日、釧路空港に着いたら空港が変な雰囲気。どうも路線の欠航が相次いでいるらしい。とりあえず自分が乗る飛行機のチェックインを済ませる。どうやら全日空の東京行きは無事のようだ。公衆電話ではどこかのおやじが北海道中の空港に電話をかけまくって飛行機の空席を探しているが無駄な努力のようだ。
自分の乗る飛行機も機材が東京から着くのが遅れ、出発時に既に一時間以上の遅れ。結局、羽田には合計で90分と大きな遅れになった。それでも羽田空港の相次ぐ欠航を見ると決して文句は言えないようだ。
羽田からの帰りは便利なので、たいていこのリムジンバスだ。最近これの本数が減らされ不便このうえないが(どういう訳かTCAT行きの方が本数が多くなってしまった。あんな路線乗る人いるんかしら?)東京駅まで最も早く着いて、しかも横羽線の混雑時には(実は殆どの場合なのだが)レインボーブリッジを通る。まあいまさら珍しい橋でもないが、東京に戻ってきたなあとういう実感をわかせてくれる橋ではある。
最近では残業後の深夜バスで通る事も多くなりましたが。(余談だけど深夜バスも混雑によってルートを9号線に変えたりする。)
なんのかんの言いながら全線走破してしまった。
いろんなことがあった。
それにしても旅先でよく人に会ったなあ。
みなさん激鉄で御苦労なことです。
私はこれにて鉄は卒業(中退かな)させて戴きます。
おしまい(’96年01月08日)